K.Maebashi's blog

最近の読書 文化人類学関係の本3冊


例によって読書記録です。

まずは、ネットで流れてきてなんとなく購入したこちら。
「自分のあたりまえを切り崩す文化人類学入門」

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表紙がちょっとあれな感じですが、内容はいたってまじめな本です。

タイトルに「自分のあたりまえを切り崩す」とあるように、我々が当たり前だと思っていることは、世界のどこか別の場所ではあたりまえではありません。この本にはいろいろな例が上がっていますが、たとえばインド西部ケーララ州に住むナーヤルというカースト集団では(以下例によって『』内は引用)、
『ナーヤルの事例が有名なのは、彼らにとっての家族がひとりの母親とその兄弟、そして母親の子どもたちによって構成されているからです。』
つまり父親は家族に含まれないそうです。究極的には父親なんて誰だかわかりゃしないので母方の家族で子どもの面倒を見る(では男は育児をしないのかといえば姉や妹の子どもの養育の義務はある)というのは合理的なのかもしれません。もっともこの家族形態はインドの民法にそぐわないので現在は消滅しているとのことですが。

文化人類学者は現地の人々とあちらの言葉で何か月も一緒に生活する「フィールドワーク」と呼ばれる調査を行います。それにより「常識が切り崩される」のだそうです。

この本の巻末にはブックガイドがあり、文化人類学関連の本が紹介されています。その中で「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」という本が紹介されており、そういえば「自分のあたりまえを切り崩す文化人類学入門」の関連書籍からサンプルをダウンロードしていた中に同じ著者の本があったな、と購入したのが次の本。

「何も持ってないのに、なんで幸せなんですか? 人類学が教えてくれる自由でラクな生き方」

この本は、前述の「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」の著者の奥野克巳さんと、ニッポン放送アナウンサー吉田尚記さんの対談本です。
『本書は、ニッポン放送podcast「奥野克巳・吉田尚記の文化人類学ラジオ」(https://podcast.1242.com/okuno-yoshida/)を再構成し、書き下ろしを加えたものです。』だそうです。奥野さんの本をいきなり読むよりこういう本から入った方が読みやすいかな、と思ったら実際読みやすかった。

この本は、ボルネオ島の森の奥で暮らすプナンという狩猟採集民に関する本です。著者の一人の奥野さんはプナンの森で20年ほどフィールドワークをしているそうです。『毎年八月と二月か三月にプナンのところに行っている』とのこと。吉田さんの方は単なるインタビュアーではなく、現地に行っている。

奥野さんによれば、プナンは所有の概念が薄く、ものを独占するのはよくないこととされていてなんでも分け与えてしまう(子どものころからそういう教育をされるとのこと)、将来に関しても認識が薄く、たとえばプロパンガスが切れそうだというところで対応しようとせずに切れてから考える。
『たとえば、子どもに「君は将来なにになりたいんだ」と質問するとします。こちらは「サッカー選手になりたい」といったといった答えを期待して聞くわけですが、プナンの子どもはポカンとしているだけなんです。質問の意味がわからなかったんでしょうね。彼らは未来や将来について考えていないのではないかと思った瞬間でした。』

狩猟採集民というと裸で腰蓑つけて槍を持ってイノシシでも追っかけてるというイメージを持つかもしれませんが、実際ヒゲイノシシは追っかけてるのですが写真を見る限りちゃんとシャツを着ているしスマホは使うし(でも個人所有はしていない)時には車を運転したりもするらしい。動画で日本のAVを見るのは大人気だそうですが文字が読めないので検索はできない。近くの森が開発されて、その補償としての現金収入もあるようですが、インスタントラーメンをちょくちょく食べるくらいに俗化しているのに資本主義的な考えが根付かないのは不思議ではあります。

次に奥野さんの「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」を読みました。

この本では、以下のようなエピソードが紹介されています。
『酒を買う金を捻出するために他人の所有物(チェーンソーの刃、銃弾、現金など)を盗む癖のあるプナンの男は、妻や家族にその振る舞いを咎められると、どうやって金を工面したのか不明ながらそれまで以上に酒を買って、泥酔するようになった。咎め立てに対するあてつけのようにも思えたが、彼はまったく反省していないように見えた。 』
盗んで怒られるということは、所有の概念がまったくないというわけではないのかな。

『ある時、共同体のリーダー(大きな男あるいはビッグ・マン、「4 熱帯の贈与論」参照)は、もともと彼らの土地である森林に対する木材伐採企業からの賠償金を前借りして、それを頭金として、四輪駆動車を購入した。プナンには運転免許を持っている者はなく、近隣焼畑民のある男から名義を借り、煩雑な手続きを経て、それはようやく手に入れられたのである。その車にハンターたちを乗せてヒゲイノシシ猟に連れて行き、獲れた猪肉を売って得た現金を山分けするとともに、車のローンの支払いに当てようと企てたのである。リーダーは、車の運転を、かつて木材伐採キャンプで車の運転をした経験のある男に任せた。
ヒゲイノシシが運よく獲れた場合には、獲物をしとめたハンターたちが、車でたくさんの労働者がいる木材伐採キャンプまで売りに行くことになった。木材伐採キャンプから狩猟キャンプに戻ってきたハンターたちは、いくらで売れたのかを、共同体の全メンバーに報告した。売上金額は妥当なものだった。しかし、不思議なことに、老いて狩猟行には同行しないリーダーにはいつも売上金の十分の一ほどの金額しか手渡されなかった。残りの九割にあたる売上金を何に使ったのかはいっさい明かされることはなかった。ハンターたちは、自分たちに対する分配金を手にするのを遠慮した。売上金で酒を飲んだに違いないという噂が、女たちの間に広まった。リーダーも、そのことを薄々気づいているようだったが、あえて取り沙汰しなかった。』

こんなことをやってるから結局ローンが払えなくなりせっかくの四輪駆動車を手放さなければならなくなります。やっぱりこれでは困るのでは。酒が諸悪の根源なのかな。

サラワク州政府はプナンを学校に通わせようとしますが、『この三十年強の間に、プナンの子どもたちのうちで、その小学校を卒業したのは二十人そこそこである。』
『小学校を終えて、町の中学校に行って勉強し、そこを卒業したプナンは、私の知る限り皆無である。サラワク州政府のプナンを優遇する教育政策や小学校教員たちの努力にもかかわらず、今日に至るまで、プナンの「学校嫌い」は、一向に改善される見込みはない。寮に寄宿し、朝食と昼食が出て、教育支援金が出されたとしても、プナンは学校に行きたがらない。父母や家族から離れてまでそんなことをしたくないのだという。貧しくて行けないのではない。働かなければならないから行けないのでもない。プナンの子どもたちは、行きたくないから行かないのである。学校教育は定着しない。』

価値観はいろいろだけど、子どもには教育だけは受けさせてあげたいなあ、と私なんかは思いますが。

ところでこの本はどうにもポエミーというか、読むのがつらかった。いちいち章の前に挟まれるニーチェなんぞ必要なのか。



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