読書記録がまただいぶたまってしまっています。順番に書いていきます。
「ルポ 死刑」。だいぶ前に買った本の再読です。
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帯に『"死刑賛成"とこれを読んでも言えますか?』とあるとおり、著者は死刑廃止派のようです。でも正直、これを読んでも"死刑賛成"の人の意見は変わらないだろうなとは思う。
内容を大雑把に。大きく3部構成になっています。
第1部「死刑の現実」
袴田事件の袴田さんの話から始まります。1966年に逮捕され、1980年に死刑が確定し、2014年に冤罪の疑いで再審請求が通って釈放された方です。(おそらくは)冤罪で48年拘禁されていたわけです。
死刑におびえながら何十年も孤独に暮らしたせいか釈放された時点ではだいぶおかしくなっていたようで、釈放されたからよし、とはとても言えない。
死刑囚は孤独です。刑務所に入った人は刑務作業もあるし雑居房だったりしますが、死刑はそれそのものが刑罰なので執行までは拘置所に入ります。面会もかなり制限されている。
しかし、確定死刑囚になると、施設長による特別の許可がある場合を除き、①親族、②婚姻や訴訟、事業で面会が必要な人、③心情の安定に資する人、に限られる。関係者によると、実際の運用では、親族や弁護人以外で面会ができるのは、最大で5人までとされているという。
死刑囚同士の交流もありません。
過去には、確定死刑囚が集まって卓球やバドミントンに興じたり、誕生会などの行事を行ったりしていた時期もあった。執行があった際には、残された確定死刑囚たちが冥福を祈る機会もあったという。
だが、法務省によると、そうした集団処遇は1996年からは行われていない。
ここまで死刑囚を孤独にする合理的な理由は私には思いつきません。アメリカだとインタビューも撮影も許されるとか。
そんな状態で何十年も過ごしたら死刑以前に精神を病みそうです。刑事訴訟法のとおり6か月以内に殺してしまうなら、あまり問題にならないかもしれませんが。
刑務官も大変です。
2000年代に入って東日本の拘置所で死刑執行された元死刑囚を知る関係者は、執行後、担当の刑務官が「辛い」とこぼしながら、独房の遺品を整理していたことを鮮明に覚えている。「(元死刑囚は)部屋をいつもきれいにしていて、対応も素直でね。壁には子どもや家族の写真を貼っていて、おとなしく過ごしていた。やったこと(筆者注:元死刑囚は殺人および死体遺棄罪で死刑確定)は凶悪だけど、普段接していると情は 移るよ。いつも見ているのは、そんな素直なやつでしかないんだから。( 執行は)ただ悲しいとしか言えない。悲惨だよ」
第2部「死刑と償い」
ここでは何人かの犯罪被害者の遺族が登場します。
- 名古屋アベック殺人事件で娘を殺された橋本さん。犯人の中川受刑者(無期懲役)と手紙のやり取りをしている。
- 保険金目的で弟を殺された原田さん。犯人と何度も面会し、助命嘆願書を法務省に提出している(それは叶わず最終的に死刑になった)
- 大型ダンプに子どもが轢かれた片山さん。「被害者感情」が司法に反映するきっかけとなった事件だそうだが、片山さん自身は死刑には反対している。
それに対し、「全国犯罪被害者の会」(あすの会)は死刑制度の必要性を主張している。当時副代表幹事だった高橋正人弁護士の言葉。
「(前略)被害者遺族の気持ちは、私のように幸いにも被害に遭っていない人間にはわからないのです。理屈だけで考えると、失敗します。きれい事で済ませてはいけません。社会の秩序を維持するために死刑を執行すべきなんです」
そう強調した後に、突き放すようにこう述べた。
「(加害者と)面会しようとする人は、あすの会には誰もいません」
これを、2014年に早稲田大学で行われたシンポジウムで、上述の原田さんに面と向かって(?)言ったらしい。『幸いにも被害に遭っていない人間』が遺族に向かってよくもまあ。
今は見当たりませんが、本書によれば、原田さんのブログにこんな記述があったそうです。
「街頭で死刑反対の発言していると、『被害者感情を考えたことがあるのか!』と云って来る人がいる。被害者には、犯人の死刑を願うような生き方しか許されないのだろうか。『肉親を殺した相手をなぜ君付けで呼ぶのか?』と聞かれたこともある。(中略)『被害者の思い』を勝手に推し量って『だから重罰化に賛成です』と同情されるより、『個々の被害者はどう思っているのか』と耳を傾けてくれる方が、私は嬉しい」
被害者遺族も人それぞれで、原田さんは中でも相当な「変わり者」ではあるんでしょう(死刑反対の話だとたいてい出てくる名前でもある)。しかし遺族でもない人間が「『被害者の思い』を勝手に推し量って」あろうことか「『被害者感情を考えたことがあるのか!』」とか言うのはあまりにも傲慢というものでしょう。
第3部「死刑の行方」
「絞首刑は残虐か」という点から始まります。諸外国では(といっても先進国で死刑を残している国って日本のほかはアメリカの一部の州しかありませんが)電気椅子だったり、最近は薬物注射だったりするようですが、それに比べて絞首刑が残虐か、と言われると、個人的には「大差ないのでは」としか思えない。死刑囚になるべく苦痛を与えないように殺すなら、ギロチンなら一瞬でいいんじゃないか、と思いながら読んでたら本書内に言及があった(元最高検検事の土本武司さんの言葉)。
第三に、一般人に惨たらしいとの心情を抱かせはしないか、だ。受刑者に肉体的苦痛を与えないようにするだけなら、ギロチンのような、瞬時に首が切断される方法の方がましだろう。しかし、道義的、文化的な視点からも配慮しなければならない。現行の絞首刑方式は、死者の名誉を含め人間の尊厳を害する要素が少なくない。
苦痛を与えないように殺す、だけが問題ではないらしい。まあ公務員による残虐な刑罰は「絶対にこれを禁ずる」と憲法にも書いてあることだしな。
今絞首刑が認められているのは1948年と1955年の最高裁判決が元になっているそうですが、1948年の判決では、
判決はさらに「将来若し死刑について火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでの刑のごとき残虐な執行方法を定める法律が制定されたとするならば、その法律こそは、まさに憲法36条に違反するものというべきである」としている。
とのこと。わざと苦痛を与えるようなことはいけない、というのは戦後すぐのころから共有されてたんですかね。
終身刑の話も出てきます。今の無期懲役は、「無期」つまり期間が定められていない懲役刑で、仮釈放で出てくることが(可能性としては)あります。「仮釈放のない終身刑」を導入すれば死刑を廃止しても世論が納得しやすいのでは、という論です。
しかし、
「一生を塀の中に閉じこめておく終身刑は、死刑よりもある意味で残虐だ」という意見があり、根強い反対論があった。
だよねえ。私もそう思う。
以下は死刑廃止論者の菊田幸一さんの意見だそうですが、
しかし死刑のある日本において、現に極刑である死刑を回避する手段の一つとして終身刑を代替するのであって、死刑がない時代、あるいは執行停止が長期(国連規準では10年以上)にわたり事実上の死刑廃止時代になれば、その時の極刑であろう絶対的終身刑は、これを見直す。つまり代替刑としての絶対的終身刑は、暫定的なものとすることを前提とする。
いや、こういうのって不誠実じゃないですか。
さて、本書の内容の紹介はだいたい以上ですが、ここまで書いたら私自身がどう考えているかも書いておくべきでしょう。私は、死刑については廃止すべきと思っています。外国がどうのというのではなく、冤罪がどうのという話でも(あまり)なく、やはり人が人を殺すことはよくないと思うからです。昔からそう思っていたわけでもないですが、最近、何か事件が起きると、ネット上で「死刑にしろ!」の言葉が吹き上がるのが怖い。死刑になるような奴はたいてい人を殺していますが、それを裁くのに国家の方が殺人するのでは断罪の根拠を失ってしまうとも思う。
上記の土本さんの言葉。土本さんは絞首刑は残虐だが死刑自体は存置派だそうですが。
「少し前まで呼吸し体温があった人間が、後ろ手錠をされて両脚をひざで縛られ、踏み板が外れると同時に自分の体重で落下し、首を基点にしてユラユラと揺れていた。あれを見てむごたらしいと思わない人は、正常な感覚ではない」
それこそ大昔に、ジョージ・オーウェルはこんなことを書いている。
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「絞首刑」より。角川文庫版「動物農場」に収録。
奇妙なことだが、その瞬間まで、わたしは、健康でちゃんと意識をもったひとりの人間を殺すというのは、どんなことなのか、一度も考えたことがなかったのだった。ところが、いま、この死刑囚が、水たまりを避けるためにわきへのいたのを見た瞬間、まさに絶頂の生命を、突然、断ち切ってしまわなければならない不可解さと、そのいうにいわれぬ邪悪さとに、はっと気がついたのだ。この男は、べつに死にかけているわけでもなんでもない。われわれと全く同じように生きてピンピンしているのだ。彼のからだのすべての器官は、ちゃんと働いている──腸は食物を消化し、皮膚は新陳代謝を繰り返し、爪はのび、組織は形成され続ける、というふうに──すべてが、こっけいなほど厳粛に、そのいとなみを続けているのだ。
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