前回の続きです。
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4巻
パキスタン
ラマダン真っ最中のパキスタンに入って、異教徒だからよかろうとバスの中でブドウを食べたら怒られたり、映画館に入ってあまりにつまらないから途中で出てきたら、爆弾を仕掛けたと疑われて警察に捕まったりする。当時反政府のテロが流行っていて特に映画館に爆弾を仕掛ける事件が多く起きてたとのことで、まあ疑われても仕方がないかも。
アフガニスタン
首都カプールで安い宿を探したら、40アフガニのところ10アフガニで泊めてくれて、その代わりに日本人相手の客引きをやれと言われる。そのホテルの若くて横柄なマネージャーの言葉。
「おまえたちは馬鹿だ。みんな汚くて金がない。何のために旅行しているんだ。楽しむためだろう。それなのに楽しむための金さえ持っていない。馬鹿だ。俺はその馬鹿から金を巻き上げてやるんだ」
まあ、もっともかもしれない。
客引きをやるだけではなく、別の安宿で日本人ヒッピーと知り合って一緒に歌ったりハシシをやったりする。
イラン
カプールの大使館で家族からの手紙を受け取ったら、以前から親交のあった建築家と彫刻家の「磯崎夫妻」がテヘランに来るという話が書いてあって、会えばご馳走してくれるかもしれないし日本語の会話にも飢えていたし、ということで大急ぎでテヘランに向かう。
その途中の記述。
磯崎夫妻に会えることを楽しみに、勇を鼓してカブールを出てきたのだが、風邪が治り切っていないためかどこか体がすっきりしない。私はバスに揺られながら、自分が外界に対してほとんど好奇心を失っていることに驚いてもいた。周囲に坐っているアフガン人の好奇の眼がうるさく、ときおり示される親切がわずらわしかった。
私たちのような金を持たない旅人にとって、親切がわずらわしくなるというのは、かなり危険な兆候だった。なぜなら、私たちは行く先々で人の親切を「食って」生きているといってもよいくらいだったからだ。
ヒッピーとは、人から親切を貰って生きていく物乞いなのかもしれない。少なくとも、人の親切そのものが旅の全目的にまでなってしまう。それが、人から示される親切を面倒に感じてしまうとすれば、かなりの重症といえるのかもしれなかった。
うーむ。本書におけるヒッピー観は一貫してこんな感じ。
ところで、筆者はここまでたくさんの物乞いに会い、そのほとんどすべてを拒絶してきたようですが※1、バスで同乗した男が最後の小銭を物乞いの子どもに差し出したのを見て、
なぜ「恵むまい」などと決めなくてはいけないのだろう。やりたい時にやり、恵みたくない時には恵まなければいい。もし恵んであげたいと思うのなら、かりにそれが最後の十円であっても恵むがいい。そしてその結果、自分にあらゆるものがなくなれば、今度は自分が物乞いをすればいいのだ。誰も恵んでくれず、飢えて死にそうになるのなら、そのまま死んでいけばいい。自由とは、恐らくそういうことなのだ……。
うん。「恵むまい」と決める必要はないけど、自分が物乞いになるくらいなら恵まない方を私は選ぶな。
ところでこの小銭を子どもにあげちゃった男は別れ際にバスを指さして
"From Youth to Death!"
と言った。「青春発墓場行」。
で、イランに着いて、どうにか(泊っているホテルの名前もわからなかった)磯崎夫妻と会って晩飯をおごってもらう。
ところでその後テヘランをぶらつくと、『交差点の角にはサンドウィッチを売っている店があり、そこではビールを呑ませてくれる。』との記載がある。イランなんてかなり厳格なイスラム教の国だと思っていたので、道端のサンドイッチ屋で酒が飲めるのか、と驚いてChatGPTに聞いたら「イラン革命前だから」とのこと。ホメイニ師かー。
5巻
トルコ
トルコでは、上述の磯崎夫人の依頼で、「ゲンチャイ」という女性に会いに行く。磯崎夫人がローマにいたころの師匠である日本人の画家の弟子で、つまりきょうだい弟子にあたる人なのですが、この人は一時期先生と一緒に住んでいたりして、先生の方は日本に妻子があるからつまりは浮気相手なわけですが、その人に先生が死んだことを伝えに行く、という使命を仰せつかる。
ただし、ゲンチャイに会ってみたら、彼女はもう先生がなくなったことを知っていた。2年前、体調がとても悪くなったので、占星術で占ってみたらローマで何か起きているとわかって電話してみたら、『どなたか女性が出てきて、一週間前にセンセが亡くなったと教えてくれたの』。
――本当かねえ。
その後イスタンブールに行く。イスタンブールでは、熊をペットのように連れている男に会って、写真を撮れと勧められたから撮ったら金を要求された。断ったら熊をけしかけられそうで恐怖したがトラックが来たすきに逃げ出して事なきを得た。
――本当かねえ。
ギリシャ
アクロポリスの丘に行ってパルテノン神殿を見たり、スパルタに行ってアメリカの大学で教鞭をとっていたという爺さんと会話したりする。
バスの中でアテネ大学の学生に話しかけられて、
アテネ大学では経済学を専攻しているのだという。私の大学での専攻を訊ね、やはり経済学だったと答えると、矢継ぎ早に質問して来た。
「マルクスを読んだか」
初期のものを中心にいくつかは読んだ。
「では『資本論』を読んだか」
ゼミナールで一年間講読をした。
「どう思ったか」
難しい質問だ。そこで、私は冗談で紛らわそうとした。
「最初から犯人がわかっている最高級の推理小説。ただし前提を受け入れることができないとその世界には一歩も足を踏み入れられない」
インテリだなあ。
地中海
ギリシャからイタリアに渡る船の上からの手紙、という形式になっています。
バランタインをひと瓶買って、木の実と干しブドウをツマミに飲んでたら、黒いタンクトップ※2の「亜麻色の髪をした女性」に木の実をたかられたりする。
ここでも、本書の旅人感が顔を出す。
長い道程の果てに、オアシスのように現れてくる砂漠の中の町で、ふと出会う僕と同じような旅を続けている若者たちは、例外なく体中に濃い疲労を滲ませていました。長く異郷の地にあることによって、知らないうちに体の奥深いところに疲労が蓄積されてしまうのです。
6巻
ローマ
ローマでは、ミケランジェロの「ピエタ」に衝撃を受けた後、前述のゲンチャイの不倫相手の画家の奥さんに会いに行く。
次に行く場所として、画家の奥さんにヴェネチアを勧められたのに、直前になって行先をモナコに変える。その理由はというと、マカオでギャンブルに負けた分、『モナコのカジノでリターン・マッチをするというのはどうだろう、という考えが閃いた。』とのこと。本当にどうかしている。
結果どうなったのかというと、モナコのカジノはドレスコードが厳しくて入れてもらえなかった。おそらく、著者にとっては良かったのだと思う。
モナコに向かう途中、ピサ行きのバスで隣に座った老人に話しかけられて、しばらく会話した後、
「また一緒に闘おう」
「…………?」
「日本人はイタリア人と共に闘った。また一緒に闘おう」
いるんだろうなこういう人。この話については次回(?)に続く。
スペイン
モナコからマルセーユに行って、あとはパリまでもう少し、パリまで行ってしまえば最終目的地のロンドンは目と鼻の先、という状況で、
しかし、私にはここが旅の終わりだということがどうしても納得できない。どこまで行けば満足するのかは私にもわからなかった。ただ、ここではない、ということだけははっきりしている。ここではない、ここではないのだ。
ということでスペインに行く。
スペインではバルでいろんな人におごってもらったりする。
ポルトガル
スペインの次はポルトガルに行き、ファド・レストランでポルトガルの演歌に相当する「ファド」を聞きたいと思ったが金がない。そこに現れた男が、ついてこいと言うのでついていくと、男は延々とファド・レストランのマネージャーと立ち話をしている。
男は金のない私にただでファドを聞かせてくれようとしたのだ。それだけでありがたかった。
で、その男と一緒に別の店で飲んだビールの便に「サグレス」と書いてあったので、サグレスの岬に行く。
夜、最終のバスを降りて岬に向かったがシーズンオフなのでホテルもやってない。でもバスは最終だったので帰ることもできず結局シーズンオフで閉まっているはずのホテルに格安で泊めてもらう。
翌日、朝の光の降りそそぐテラスで食事をとりながら、これで終わりにしようかな、と思った。
フランス
安宿を探してうろうろしていたらたまたま日本人と会って、安いホテルはないかと聞いたら、その人は今住んでいるところを退去しなければいけないが次に住むところをすでに借りていて※3、退去の日までは空いているので、と1日5フランで貸してくれる。
それでパリで何週間もぶらぶらし、年も越して、やっとイギリスに向かう。
イギリス
ロンドンに着いたので、「インドのデリーからロンドンまで乗り合いバスで行くことは可能か?」という賭けに勝ったと示すために「ワレ到着セリ」みたいな電報を打とうとロンドンの中央郵便局に行くが、そこで、電報は電話で打つのだ、という当たり前のことを教わる。
実のところ1巻で、友人たちに
「三カ月か四カ月後には、ロンドンの中央郵便局から《ワレ成功セリ》って電報打つから楽しみに待ってろよ」
と言ったと書いてあって、そこを何も不審に思わず読み飛ばしていた私は筆者のことを笑えないな。
で、その後電報打って日本に帰ったのかというと、
歩きながら、しだいに私はおかしくなってきた。そうか、電報は郵便局ではなかったのだ。そうか、電報は電話局からだったんだ。
私はこの旅の終わりの場所をロンドンの中央郵便局と決め込んでいた。仮りに他の場所で旅の本文は終わっているにしても、このロンドンの中央郵便局で電報を打たないかぎり、最後のピリオドは打てないと思い込んでいた。だが、その中央郵便局は電報など受け付けていなかった。
いつの間にか私はリージェント通りをピカデリー・サーカスに向かって歩いていた。
電報は電話があるところならどこからでも打てるらしい。ということは、ロンドンのどこからでも可能ということになる。いや、もうそこがロンドンである必要はないのかもしれない……。
クックック、と笑いが洩れそうになる。私はそれを抑えるのに苦労した。これからまだ旅を続けたって構わないのだ。旅を終えようと思ったところ、そこが私の中央郵便局なのだ。
――ということで、アイスランドで魚運びのバイト(きついが給料はいいらしい)でもしようかと、アイスランド行きの船のチケットを買ったところで終わる。
以下、感想など。
どこまで実話なんだろうね
野暮なことを言うようですが、どこまで実話なんですかね。
マカオでのギャンブルの話は、胴元がイカサマをしている(サイコロの目をある程度自由にできる)ことを前提にしているけれど、サイコロ3個でやるギャンブルで、そんなに出目を調整できるものだろうか。まあ、話に出てくる「大小」では、客はサイコロを振ってから賭けるらしいから、出目は選べなくてもどこかに監視カメラでもつけておけば、カモのオバサンに途中まで儲けさせてやることはできるだろうけど、調子に乗ってたっぷり賭けたところでゾロ目にしてすべてを奪う、というのができなければ意味ないのでは。
本書を読むと著者はロンドンのあとアイスランドに行ったかのように書かれていますが、それはどうも事実ではないようです。ChatGPTに聞いたら、後年の「旅する力―深夜特急ノート―」という本でこう書いているらしい。
時折、こんなことを訊ねられることがある。
ロンドンに着いてからどうしたのですか。あるいは、アイスランドには行かなかったんですか、と。
結論から言えば、アイスランドには行かなかった。
ロンドンからドーバーに出て、フェリーでオランダのロッテルダムに渡った。それはヒッピーのもうひとつの聖地とでも言うべきアムステルダムに行くためだった。
このページからの引用。「旅する力―深夜特急ノート―」は、Kindleにないし、もう中古でしか手に入らない。
若者の特権だなあ
著者はあちこちで現地の人にメシとか酒とかおごってもらっています。上でも引用したけれど、『私たちは行く先々で人の親切を「食って」生きているといってもよいくらいだったからだ。』まったくです。
でもそうやっておごってくれるのも著者が若者だったからで、たとえば今私が海外旅行したって誰もおごってはくれないよねえ。
長い間貧乏旅行を続けられる体力も若者ならではではありますが、こっちは私も今ならまだいけるのでは、と思ってしまいます。私が自分の老化に自覚がないだけかなあ。
――でも体力さておきドミトリーではなく個室に泊まりたいし、シャワーではなく風呂が欲しい。贅沢がしみついてもう貧乏旅行には耐えられないかも。
時代背景
旅をしたのが1973年ころで、イランでまだ酒が飲めた、という話はさておき、当時の円は1ドル270円くらい、円は今より安いですがそれでも途上国の物価はもっと安かったように見えます。
1900ドル持って旅に出たそうですが、当時の日本円で50万円ちょい、今だと200万円くらいに相当? それで1年旅をするのは、ええとどうなんだろう。アジア主体のバックパッカーなら可能なのかな。
費用さておき、筆者があちこちでおごってもらえた原因のひとつは、当時は東洋人の海外旅行客がめずらしかった、ことかもしれません。
――今は時代も違うし(深夜特急のルートの国の一部は今はもう危険で入れないし。イランとか)、私はどうひいき目に見ても今更若くはないので同じ真似はできないですが、やっぱり旅に出たくなりますね。
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